こんにちは、逆境☆マンです。
以前から行きたかったけど中々いけなかった徳川美術館へ行きました。
祖父の影響で幼少期に暴れん坊将軍をよく見ていた事もあり、結構歴史好きなのです。
厳かな雰囲気です。
徳川家、御三家、尾張徳川家の歴史
1603年(慶長8年)征夷大将軍 徳川家康公が江戸に幕府を開いて1863年(慶応3年)まで264年という長きに渡り江戸幕府は存続しました。
現在も徳川家の末裔の方々が日本全国に多数いらっしゃいます。
その中で徳川御三家という、徳川将軍家(宗家)に準ずる最も格式の高い家柄があります。
それが尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家を所説ありますが御三家と呼ばれる家です。
御三家の重要な役割として、将軍家に跡継ぎが無い時には紀伊徳川家と共に将軍後継者を出す資格がありました。
尾張徳川家は家康公の九男・徳川義直を家祖とし長い歴史の中で、明治維新後には華族の侯爵家に列しました。
1935年(昭和10年)には、尾張徳川家ゆかりの宝物を展示公開する為に徳川美術館を会館します。
徳川美術館の館長は徳川義親以降、代々尾張徳川家当主が務めています。
暴れん坊将軍や水戸黄門のようなポピュラーな人物の逸話はありませんが、初代義直公は文武両道の武将として知られ、学問に対する熱意も高く、文知政策を推進しました。
気位の高い性格だった為、将軍家とたびたび衝突しましたが、終生、父、徳川家康を敬愛し、その治世を理想として善政を敷きました。
尾張徳川家を代表する名君と呼べる人物です。
甲冑の美しさ
長篠の合戦屏風図や刀剣・備中国住次直や大名の来室・書院飾り等が厳かな雰囲気の中展示されていました。
その中でも、甲冑の美しさは目を見張るものでした。
銀箔置白糸威具足・松平忠吉(徳川家康4男)着用 関ケ原の戦いで着用
あの有名な関ケ原の戦いで着用されたものだと思うと、歴史の変換点で使用されたんだなーと感慨深いものがあります。
世の中が豊臣政権から徳川政権に移行するきっかけの一つの戦です。
学校の歴史でも習う、多くの人が知るポピュラーな戦いです。
朱塗啄木糸威具足・徳川義直着用 あちこち火縄銃の試し打ちの跡が残っています
尾張家初代藩主・義直公が紀伊徳川家、水戸徳川家にも同様の甲冑を送っています。
実際に試し打ちをして強度を図る所は、義直公の質実剛健な性格がでているなーと思いました。
シンプルでかっこいい甲冑です。
黒糸威胴丸具足(本多忠勝 甲冑写し) 徳川四天王 本多忠勝公の鎧です
本多忠勝公はこの甲冑を身にまとい57回にも及ぶ合戦で一度も怪我を負わなかったとされています。
遺書の一節、「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」
辞世の句、「死にともな 嗚呼しにともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」
この二節だけで、この人物の懐の深さと忠義心が伝わります。
現代でもこのような上司、部下、仲間がいればこれほど頼りがいのある人はいないことでしょう。
しかし私が思うにこのような人に信頼してもらえる人だった家康公の凄さも同時に感じました。
自分も少しでもお二人の様な要素を兼ね備える人になりたいです。
歴史に想いをはせる
歴史には現代社会に通じる真理が沢山あると思います。
経営者、ビジネスパーソンも歴史から多くを学ばれている方々がいらっしゃいます。
徳川家も戦国時代、幕府設立から明治、大正、昭和、平成、令和をへて受難を乗り越え柔軟に姿を変え家を存続させてきました。
自分も家を持ち家系を紡ぐ重さを感じています。
現代では完全に家系に囚われる事無く個人の自由を尊重する想いも理解できます。
現代では家の紡いできた歴史と重さを想いつつ、自身の幸せを追求したいですね!
歴史は面白い!
ではまたまた
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